純文学と官能小説の狭間で
- Naoko
- 2022年1月20日
- 読了時間: 5分
更新日:2022年1月25日
執筆者:Naoko
『姫君を喰う話』というセンセーショナルなタイトルの本を書店で見かけ、本能的に手に取ってしまった。
「喰う」とは、性的なものを意味する比喩なのか、それともカニバリズムを意味する猟奇的な物語なのか、腹の奥がこそばゆいような奇妙な感覚に陥りながら、おずおずと会計カウンターへ。
この1冊だけ購入すると、会計担当の書店員に、このような本を購入する私に”エロス”と”サイコ”というタグを貼られてしまうのではないかと思い、別にもう1冊を余計な本を購入することに至った、ある種お値段以上の価値を持った小説である。

『姫君を喰う話 宇能鴻一郎傑作短編集』は、宇能鴻一郎のおおよそ純文学に該当する短編作品が納められている。
宇能は、純文学者であり、官能小説家であり、推理作家と様々な作風を書き分ける多才な作家である。
大映により映画化もされた『鯨神』は、第46回芥川賞を受賞しているものの、それ以降、官能小説が多く煽情的なタイトルの小説の執筆を続ける。
正直、官能小説家、というのはどこか、純文学では生活できない職業小説家であり、本来は純文学で食べていきたいが、生活に苦しいから官能小説を書いて糊口をしのいでいるという大変失礼なイメージが私の中で出来上がっていた。
しかしながら、純文学の中でも谷崎潤一郎のように偏執的なエロスを主題にしている作家もいるではないか。
純文学と官能小説の境界線
純文学と官能小説の境は何処にあるのだろうか?
純文学の広辞苑の定義は、こうだ。
「①広義の文学に対して、美的情操に訴える文学、すなわち詩歌・戯曲・小説の類をいう。
②大衆文学に対して、純粋な芸術を指向する文芸作品、殊に小説。」
一方、官能小説はというと、実用日本語表現辞典によると、
「性的刺激・性的興奮を催させる、性愛・性描写を主題とした小説。官能に訴える小説。」 と定義されていた。
この定義に当てはめてみると、純文学だったとしても、性的に興奮する要素があれば官能小説とも言えそうだが、「美的情操」に訴えかけていれば純文学とも言えそうで、なんとも曖昧な定義であると思う。
勝手ながら私なりの見解で述べさせていただくと、純文学か官能小説かの境目は、小説のタイトルが、直情的であるか否かだと思っている。
では、『姫君を喰う話』というタイトルはどうか?
一番最初に戻るが、「喰う」とは、性的なものを意味する比喩なのか、それともカニバリズムを意味する猟奇的な物語か、
はたまたどちらの意味も備えているかは、是非この作品を読んで判断してもらいたい。
神聖性の俗化
『姫君を喰う話 宇能鴻一郎傑作短編集』に納められている作品は、日本各地でフィールドワークをしたのではないか?と思われるような土俗的且つエロティックな作品で甲乙つけがたいのだが、あえて1つ選ぶとしたら、『西洋祈りの女』という短編についてお話したいと思う。
三重県の山間の村落にやってきた西洋風の祈りをする女と、二人の子供。
何処か都会の香りを村に持ち込んだ女は、この時代や場所にしては珍しく濃い化粧にパーマをかけ、西洋風の祈祷を生業とし村人の注目を集める。
祈祷によって、病気や悩みを快癒させることで様々な村々を渡り歩き、二人の子供を育てている。
村長や村人は、そんな女を好奇な目で見ながらも、祈祷の腕は確からしく少しずつ信頼を寄せていく。
この村落の少年である主人公は、西洋祈りの女の子供と近い年頃で、村長に頼まれ、川に連れて行ってやると、鰻の稚魚が苔むした岩場に無数にへばりついて懸命に川を上っていこうとしている光景を目の当たりにする。
鰻の稚魚の大半は、この川登りができず、他の魚の餌になってしまったり弱ったりして、親鰻にはなれないのだという、むしろ親鰻になれるのは、ごく一握りのなのだ。
西洋祈りの女の子供は、この鰻の稚魚が村々を渡り歩き、強く生きていく自分と重なり、どこか心を打たれたようだった。
ある時、村落で土俗的な祭りが行われ、激しい男衆だけでの踊りの際、最後まで踊り切ったものが、その祭りの協賛者から褒賞を受け取ることが出来るのだった。
この年の祭りの協賛者は、村長と西洋祈りの女であった。
村で一番力のある一人の青年が、荒々しい男衆の踊りの勝者となり、西洋祈りの女の元を訪れる。
村民たちもその様子を見に集まってくる中、青年は磁力で西洋祈りの女に惹きつけられるかのように、女に覆いかぶさり激しく犯すのだった。
衆人が見守る中、行為が終了し、村人たちは女に対し今まで抱いていた高揚感や神聖性が急に冷え切って、女は村落から追い出されるように子供を連れて旅立つことになった。
季節は変わり、女が二人の子供を絞め殺し、自身も自殺した、という知らせが少年のもとに入ってくる。
少年は、かつて見た鰻の稚魚のうち、大人になれず死んでいった稚魚をその子供の姿に、産卵を終えて疲れ切って死んでいく雌の親鰻を西洋祈りの女に重ねるのだった。
この話の恐ろしいところは、そういった話が三重のどこかの村落にはありそうな生々しさ、そしてあれだけ丁重且つ神聖視していた女をいとも簡単に俗化させてしまった村民の心情の変化だ。
女に対して、神聖さに加え、西洋祈りという得体の知れない祈祷を行う女に対する熱っぽい信仰心、通常の人とはかけ離れて見える所作や服装など、羨望と背中合わせに、どこか同じ人間かそれ以下かのランクを確かめたいという好奇心が渦巻いている。
青年に犯された女は、村落では今まで一段高いところにいたが、村人と変わらない、むしろ一般の女以下であるという評価を与えられ、この村落での祈祷の商売が成り立たなくなってしまった。
この物語は、崇拝と冒涜という上下の関係性を構築したがる人間の業と、生きていたい願う人々の悲願が描かれている。
割愛してしまったが、蛇の生き血を飲む弱った女や、豚の屠殺など、死にゆく者たちの足掻きが描かれていて胸が締め付けられる。
他の短編小説も、官能的でありながらも社会性をテーマしたものや小さなコミュニティが抱える熱量を描いているものも多く、短編とは思えないほど読みごたえがある。
純文学も、官能小説も、推理小説も、紀行文や評論まで手掛ける宇能鴻一郎。
多才すぎて、おそらく1つのジャンルだけで才能を絞りこむことが出来なかった天才なのかもしれない。
参照元:
新潮文庫 『姫君を喰う話 宇能鴻一郎傑作短編集』 宇能 鴻一郎
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