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平凡な女の凄絶な孤独

  • 執筆者の写真: Naoko
    Naoko
  • 2022年11月17日
  • 読了時間: 5分

執筆者:Naoko


鋼のようなメンタリティの女性が登場する作品の代表格でもある、林芙美子の『浮雲』。

舞台は、戦中~戦後にかけての日本人にとって、最も辛く貧しく耐えがたきを耐えなければならない時代。



主人公のゆき子は、タイピストとして、仏印、今でいうベトナムのダラットへ赴任し、農林省の役人で、既婚者の富岡に出会う。妻は日本に在りながら、ベトナムに赴任している間、ベトナム人のメイド・ニウと関係を持ったり、ゆき子と関係を持ったりしている。

敗戦後、それぞれ日本に帰国するが、富岡は様々な仕事を転々とするが、どれもうまくいかず、失敗している。


富岡と愛し合ったダラットでの幸せな日々を思い出し、衰弱しきっている彼に会いに行き、復縁するも、富岡は旅行先で心中しようとしたり、またその旅行先で別の女性に手を出したりと、意志薄弱な上に全ての物事から逃避している。


一方、ゆき子は富岡への執着もありながら、他の男性たちとの行きずりの関係を持ったりもしているが、あまりくよくよ悩むことはせず、むしろ今まで好き勝手に自分を扱おうとする男たちへ瞬間的な怒りを沸騰させたと思ったら、急に興味を失ったり、同情してみたりと、やや上からの視点で男たちを眺めている。


ダラット、東京、伊香保、そして、屋久島へ、転々と場所を変えながら、ゆき子と富岡の関係は揺らぎながら、浮雲のように漂ってゆく。


『浮雲』は、ゆき子というあまり魅力的にも見えない平凡そうに見える女性が、戦中から戦後どのようにしたたかに生き抜いたかをメインに描いているが、この物語を読むうえで、押さえているとより深く共感できるポイントについて記したい。


普通の女だって恋はする


小説の中で、恋をする女性は、どうしても美しく描かれがちである。

どこかキラキラしていて、弾むような軽やかさが強調されてることが多いように思う。


しかし、リアルではどうだろう?


恋している女性は、エストロゲンが分泌され、肌艶が良くなり、若々しくなる傾向にあるが、顔の造形が根本的に変わるわけではない。

普通の容姿の女性、または一般的に美しいと言われない女性だって、恋はするし、誰かと一緒に添い遂げたと思ったりする。


ゆき子は、自分の容姿について時々卑下する時もあるし、李香蘭に似た華やかな同僚のタイピストに対する周囲の対応の差に臍(ほぞ)をかむこともあるが、自分自身のほっそりしたボディラインに満足しそれを愛していたりもして、そこら辺のさじ加減が、女性の読み手であれば、妙にリアルな感覚に近く、共感できるところである。


読む前は、昭和のドロドロした湿っぽい印象のあった『浮雲』だが、時代や場所が変わっても男女間の煮え切らないやり取りやそこに生まれる感情自体は普遍的だ。


また、ゆき子が昭和の時代の封建的な女性ではなく、どこかドラスティックで、孤高の精神性を持ち合わせてるところも、今読んでも古臭さを感じない。



戦中・戦後のグローバリズム


戦中世代の方と接していると、戦時中にパラオに行ったとか、満州生まれだとか、様々な海外体験を昨日のことのように鮮やかな記憶としてお話されることがあり、驚かされることがある。

辛い記憶も多いと想像するが、その土地の生活や動植物、空気感や匂いのような体験をした者だけの言葉を伝えてくれることも驚く。さらに驚かされるのは、現代の日本人の比較的海外に旅行に行くことが好きな人よりももっと尖ったグローバリズムを持ち合わせていることだ。

もちろん、太平洋戦争時の日本の対アジア政策構想である大東亜共栄圏の建設を見据え育てられたグローバリズムであっただろうから、どうしてもエッジのきいたそれを持たざるを得なかったのかもしれないが...。


冒頭でも触れたが、ベトナムのダラットが、物語の初期に登場する。

ベトナムというと、ホーチミンやハノイが有名な観光地であるため、ダラットに行ったことがない方に分かりやすくこの土地についてお伝えすると、ダラットは「ベトナムの軽井沢」のような避暑地であり、ベトナム人にとって新婚旅行でも良く選ばれる都市なのだそうだ。

ダラットに行ったことがない私に、ダラット出身のベトナム人の知人が教えてくれた言葉をそのまま使うと、このような場所らしい。


ベトナムの軽井沢。


そう聞くと、ベトナムにしては涼しくて、過ごしやすく、土地自体にブランド力のある場所なのだろう。


ゆき子と富岡はそこで過ごしたことを、時折夢に見たり、あの頃過ごした美しい街や生活していたことに想いを巡らせている。

それは、焦土となった酷い有様の日本の暗く貧しい生活を生き抜くためには、必要な美しく心のよりどころ、原風景のようなイメージなのかもしれない。


この時代に戦場ではない海外の土地に滞在した日本人にとっては、ゆき子や富岡が見たのと同じような桃源郷を心に留めている、これが戦中派の人々のグローバリズムの根幹になっていそうだと感じた。



浮雲のような孤独感


ゆき子と富岡が浮雲のようにくっついたり、離れたりを繰り返しながら各地を漂い、最後にたどり着いた屋久島でゆき子が病に倒れ亡くなり、富岡はそれを見送り、もう再びと結合することができなくなった浮雲の片割れのような寂莫とした終わりを迎える。


物語の中で、孤独な女として描かれたゆき子だが、おいてぼりを喰らったのは富岡だった。ゆき子の死はただただ悲しいというよりも、今までの富岡へのゆき子らしい報復のような死に様であった。





参考元:新潮文庫『浮雲』林 芙美子

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