美が完成に近づく時
- Naoko
- 2022年10月27日
- 読了時間: 3分
更新日:2022年10月29日
執筆者:Naoko
「美」の定義はすこぶる難しい。
時代、国・風土、コミュニティ、人の価値観によっても「美」の定義は様々で、同じ言葉であっても、その先の「美」は全く異なることだってあり得る。
今日は、「美」の定義を、人や物、事象の造形の美しさと捉えることに限定したい。
青すぎても、熟れ過ぎても食べ時を失う水蜜桃のように、美が完璧さをとどめている瞬間は、短い。
『孔雀』は美の移ろいに対する不敵な挑戦を描いている作品だ。

Who Killed Peacock
三島由紀夫の作品に『孔雀』という短編がある。
M遊園地で、二十七羽の印度孔雀が殺され、警察から、その犯人と目星を付けられたのが、孔雀愛好家の富岡だ。
富岡は地主の息子であり、40歳で結婚し、声楽家を目指していた肥えた妻と4歳になる娘と三人で裕福な暮らしをしているブルジョワである。
家には精緻な孔雀の置物も飾っていたが、生身の孔雀を眺めるのも無論好きで、孔雀が惨殺されたM遊園地にも足繁く通っているようだった。
孔雀愛好家である富岡を疑った刑事は、彼の家を訪ね、応接間に通される。くだんの孔雀の置物を目を惹かれたが、それよりも恐ろしいまでの美しい少年の写真が飾られていることに気付く。
彼やその妻に当日の行動や動機を見出そうと話を聞くが、当日のアリバイもあり、富岡の嫌疑は晴れる。
事件とは関係ないが、飾られていた美少年の写真が誰であるのか、気になった刑事は、二人に聞くと、富岡本人の若いことの写真であるという。
現在の整った顔立ちではあるが、40代半ばの老いと生気のない彼の現在の姿と写真の中の絶世の美少年があまりにもかけ離れていると感じた刑事は衝撃を受ける。
富岡は刑事の帰った後、殺された孔雀、美しい青い羽が血にまみれることを想像し、「孔雀は孔雀の本質と結びつき、川と川床は一つのものになり、孔雀は宝石と一つになるだろう。」*1 と妄想にふけるのだった。
そして、「もし俺が殺していたのだったら、思う存分、その奇蹟の時を見尽くすことができたろうに。その犯人が嫉ましい。犯人をつきとめてやりたい。せめてその、世界で最も豪奢な犯罪を犯した奴の顔をみてやりたい」*2 とさえ思っていた。
もう完全にサイコパスで、変態的な思考に唸ってしまう。
後日、刑事は富岡家を再訪し、嫌疑をかけたことをお詫びし、孔雀惨殺は野犬の仕業であったと報告するが、彼は「そんなことは決してありません」*3 と断言するのだった。
富岡の異常な熱意に押し切られ、刑事は深夜に無人のM遊園地に共に孔雀惨殺の真犯人を突き止めるため張り込む。
夜が更け、刑事がうつらうつらしている頃、孔雀を惨殺する犯人を双眼鏡で見つけると、そこには複数の犬を連れた、あの写真の美少年、その人がいたのだった。
美を完成の目撃者
孔雀という造形の無駄なまでに美しい鳥が、「生存し、飼われることにもまして、殺されることが豪奢だということ」*4 に酩酊している富岡。
孔雀が殺されることで、己が求める最上級の「美」の形に近づくことを夢想している。
富岡の夢または思考から抜け出してきたような、若き日の絶世の美少年が、最上級の「美」を完成させるため孔雀を殺している場面を、「美」をとどめておくことが出来なかった中年期の彼が、双眼鏡で眺めているという構図は、シニカルでもあり、一方で自身が成しえなかった願望をまさに達成しているかのような甘美な瞬間でもあるのだ。
三島の作品には、闇を抱えた変態ブルジョワが登場することが多く、小説を読むたびに今回の登場人物はどのような性癖を持っているのだろうと、妙に期待してしまう。
短編小説であってもそれは絶対に裏切らず、刊行されてからだいぶ時を経ているのに、全く色褪せを感じさせないのは、やはり人間の本質を描き切っているからなのだと思う。
引用元:*1,2,3,4 国書刊行会『書物王国8 美少年』から「孔雀」三島由紀夫
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