橋の下を、たくさんの水が流れた-前半-
- Hiroko
- 2021年12月30日
- 読了時間: 5分
更新日:2022年1月13日
執筆者:Hiroko
元サントリーのコピーライターで、フィクション・ノンフィクションともに名高い作家の開高健には、未完の闇3部作がある。
『輝ける闇』
『夏の闇』
『花終る闇』(未完)
1964年に朝日新聞社臨時特派員として戦時下のベトナムに入り、ゲリラ攻撃に合うも生還。このときのルポルタージュ『ベトナム戦記』を発表した3年後に、戦争を題材にした小説・闇シリーズ第一弾となる『輝ける闇』が発表された。
1971年に『輝ける闇』を発表。
1972年に『夏の闇』を発表。
1990年の『花終る闇』が書籍化。
『花終る闇』は1989年に食道癌でこの世を去った翌年の1990年に新潮社より書籍化されたが、これが未完の遺稿となった。
このコラムは1972年に発表された『夏の闇』をメインに書いていきたいと思う。

ウィスキーと、釣りと、サルトル
洋酒会社壽屋(現サントリー)で数々の大ヒットキャッチコピーを手がけた開高健だが、中でも有名なのがトリスウィスキーのこのコピーだろう。
人間らしくやりたいナ
開高健という名前は知らなくても、このコピーは見たことある!という方は多いのではないだろうか。
『夏の闇』発表から2年後の1974年に茅ヶ崎に移り住んでいるが、その邸宅が今は茅ヶ崎市に寄贈され、開高健記念館として開かれている。
以前わたしは、海の近くに住んでみたくて少しだけ茅ヶ崎に仮住まいを借りていたことがあるのだが、その近所に開高健記念館があった。
白い洋風のおしゃれな邸宅だ。
散歩の途中に見つけなんとなく立ち寄って以来、茅ヶ崎でもっともお気に入りの場所となるのだが、それまで開高健という名は知っていたが作品を読んだことはなかった。
記念館にたくさんの著作がならんでいる中で、タイトルに惹かれ手に取ったのが『夏の闇』だ。
『夏の闇』はわたしにとって初めての開高作品となった。
生々しいけどドロドロした感じとは違う、はっきり言い切る表現は少ないが力強さを感じる不思議な作品だった。
今まで愛読していた谷崎潤一郎とは違う本の傾向を教えてもらった。
当時の私の置かれていた心境にもぴったりで、開高作品に魅了されていった。
とくに心を掴まれた箇所がある。
「(略)酔いがさめる。酔えなくなったら生きていくのはつらいよ。つぎは何にすがったらいいのか。そこをどう思う。何か酔えるもの、夢中になれるもの、ある?」
(略)
しばらくして私がつぶやいた。
「おれにはないんだよ」
女が息を吸って、低く、
「私にもないわ」*1
このシーンは、多くの書評家や開高ファンが『夏の闇』を語るうえで頻繁にとり上げている。
『夏の闇』は、わたしが生まれる前に出版された作品だ。
テーマになっている戦争ももちろん知らない。
だが、文章と文章の隙間から今の自分に必要な言葉が落ちてくる気がして、夢中で『輝ける闇』もむさぼり読んだ。
開高健がここに住みここで執筆をしていたのだと思うと、熱いものが込み上げてきた。
邸宅から歩いて数分で海に出る。きっと執筆に行き詰まったら、幾度となく海を見に行ったはずだ。
釣り道具やたくさんのウィスキーの瓶に本の山。
中でも印象的だったのが、真っ赤な表紙のサルトルの『嘔吐』が展示されていたことだ。
サルトルやリルケを熱心に愛読していたと言われているが、この本を見てから私もどうしても真っ赤な表紙の『嘔吐』が欲しくて、古本屋やネットショップを探し回ったがいまだ見つけられていない。
売っていたらぜひ教えてください...
生と死を書き続けた作家
闇シリーズでは、生きるとは何か、死とは何かを繰り返し問われているように感じる。
『夏の闇』はベトナム戦争に記者として従軍した男が10年ぶりに女と再会し、また戦地に旅立つまでを描いた小説だ。
主人公の男は戦場から戻ってから空虚にとらわれており、酒と性に堕落した生活を送っている。だが、北ベトナム軍第3波攻撃の噂を聴いて戦場へ戻ることを決意する。
この主人公は、開高自身がモデルになっている。
終始じっとりした生々しい空気感が漂っているが、豊かな文章力でやめ時がわからなくなる。
内面の葛藤の描写が多く、ハッキリとしない男の心情が続くのはTHE純文学といった感じがする。
純文学の作家は内面を深くえぐるのがうまい。逆に現代文学は、気持ちの移り変わりをうまく描く作家が多いなと個人的には感じている。
冒頭では、10年ぶりに駅のプラットホームで男と女が再会するシーンがある。
「かれこれ十年だよ」
「そうね」
「たくさんの水が流れたのさ」
「橋の下をね」*2
イタリアの詩人・ギョム・アポリネールの詩に、ミラボー橋というシャンソンにもなっている有名な作品がある。
時の流れを川の流れに例えたものだ。
開高健は、好んでこの表現をつかっていたらしい。
この会話表現を読んだとき、感動しすぎて数秒息が止まったのを覚えている。
せっかくなので、シャンソンのミラボー橋の動画を貼っておきたい。
日本人では、金子由香利か長谷川きよしのミラボー橋が素晴らしいと思うが、金子由香利の艶やかで朗読のようなミラボー橋を。
普通に生活ができない
戦争から戻り気力を抜き取られた男は、女と再会しても生活は変わらなかった。
あるとき男は、料理を振る舞ってくれる女にこう言う。
「おねがいが一つある」
「なあに?」
「ママゴトでやってほしいんだ」
いってから私は口をつぐみ、タバコに火をつけた。
(中略)
ママゴトにしてほしい。ピッツァも、デッキ・チェアも、搾菜麺も、チャプスイも、ママゴトにしてほしい。
それ以上のものにも以下のものにも、できたら、しないでほしい。*3
この小説には、女の心が自分に近づきすぎないよう慎重に距離をとろうとするシーンが何度も出てくる。
「女に白い臀が〝好きか〟と聞かれると私は明瞭な口調で答えられる。けれど、それを〝愛しているか〟とたずねられると、たちあがるまえにうずくまることを考える。それが臀でなくて〝心〟とか〝私〟になると、いよいよすくんでしまう。」*4
男の生活に再び光がさしたのは、
美味しい食事でも、酒でも、白い臀でもなく、戦争だった。
(後半へ続く)
引用元:
*1*2*3*4 新潮文庫『輝ける闇』開高健
新潮文庫『夏の闇』開高健
新潮社『花終る闇』開高健
動画:
『ミラボー橋』金子由香利
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