ルッキズムの罪と罰
- Naoko
- 2022年6月16日
- 読了時間: 4分
更新日:2022年6月20日
執筆者:Naoko
美容室、ネイルサロン、美容皮膚科、整形のための美容外科など、見た目の美にまつわる仕事に就かれている方から、最近よく耳にするのは、電話での問い合わせや予約は少なくInstagram経由の予約だったり、問い合わせが非常に多いという。
特に10代、20代の若い世代にその傾向が強く、サービスや商品の購入の決定打が、InstagramなどのSNSになってきているということだ。
これは一体、何を意味するのか?

あくまでも私の推察になるが、10代、20代の若い世代の多くが、視覚優位の認知特性を持っているのではないか?と考えている。
写真や、何らかの目を引くビジュアルに引き寄せられ、様々な商品やサービスを認知し、関心をよせるという傾向があるのかもしれない。
認知特性とは、五感を中心とした感覚器官から取得した様々な情報を、理解し、記憶したり(インプット)、表現したり(アウトプット)、どのように処理するかについてのタイプを指している。
認知特性は「視覚優位」、「聴覚優位」、「言語優位」または「体感覚優位」など、大まかに分けて三つに分類される。さらに細かい分類を唱える人もいるが、話を簡潔にするために、今回は「視覚優位」、「聴覚優位」、「体感覚優位」の三分類とさせていただき、「視覚優位」について触れていきたい。
「視覚優位」の認知特性が強い人は、視覚からの情報収集や理解を得意とし、文章や言語で説明するよりも、写真や図画を見ることにより、物事を早く、深く理解できる。
逆に言えば、そういった認知特性が強めの人は時として、美しい風景や建物の写真、または人物を見て、見ているものが全て真実であると誤認してしまうこともあるかもしれない。
また容姿の整った男性や女性の外見に惹きつけられ、人を信じ、その人の一面だけを見てしまったが故に、傷つけられるかもしれない。
美しく在ることは、悪か
オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』では、無垢、且つ、絶世の美青年であるドリアンが、厭世的で皮肉屋の貴族に唆されて、その美貌を武器に、人の道を踏み外し転落していく物語である。
ドリアンは、自身をモデルに肖像画を描いてもらっているが、年を取らず、全てこの肖像画が老いや醜さを吸収してくれれば、と願う。
人間性を疑うような行為を繰り返し、様々な悪業を重ねていくが、その度に自身の肖像画が醜く変化していくのに気づき、屋根裏部屋に肖像画を隠す。
20年が経過し、何度か改心しようするが、アヘンに溺れたり、命を狙われるも寸でのところで助かったりとなかなか生活を改めることが出来ない。
どんどん醜くなっていく肖像画が全ての元凶であると考えた彼は、肖像画にナイフを突き立てるが、そのナイフによって死んだのはドリアンその人そのものであった。
醜くなった肖像画の顔の状態で、絶命してしまったのだった。
登場人物はドリアンのほか、厭世的な青年貴族・ヘンリー卿、肖像画を描いたバジルが主だった面々であるが、この中で罪深いの一体誰なのだろう。
美しすぎるドリアンが罪なのか?
美に気付かせてしまったヘンリー卿が罪なのか?
悪業に手を染めても尚、ドリアンを崇拝してしまうバジルが罪なのか?
この三人の関係性は、それぞれ火に油を注ぎ合う関係性といってもいいほどだ。
真善美
生来のドリアンは、美貌と善良さを併せ持った人物で、純粋さゆえに染まりやすく、ヘンリー卿の甘言に唆されてしまった。
「真善美(しんぜんび)」という言葉がある。
広辞苑によると、「認識上の真と、倫理上の善と、審美上の美。理想を実現した最高の状態をいう。真善美は、それぞれ論理学・倫理学・美学という独立の学の主題とみられる場合もあり、価値論で、相互に関連し合った統一的な価値とみられることもある。」とある。
ドリアンはこのうち、はじめのうちは、”倫理上の善”と、”審美上の美”を兼ね備えていた。
だが、”認識上の真”を、逆説家であるヘンリー卿のフィルターを通して伝えたが故に、”倫理上の善”が崩され、最終的には、”審美上の美”を失い、全てを失うという罰が与えられる。
若さゆえの美というのは、永遠ではなく、いずれ失われていくものであり、真善美を保つことは容易ではない。むしろ、人や動物として生まれたら、いつかは朽ちていく存在なのだから。
真善美の均衡を保つもの、繋ぐものがあるとするならば、普遍的であるもの、すなわち”本質”と呼ばれるものなのかもしれない。
Instagramや様々なソーシャルチャネルに投稿される、美しく無個性な加工の施された人々の顔を見るたびに、『ドリアン・グレイの肖像』の物語を思い出す。
ドリアンのように老いさらばえてすぐに死んでしまうことはないと思うが、加工された写真と現実の溝がどうしようもなく埋め難くなった時に、失ってしまうものがその人に科せられた罰なのかもしれない。
勿論、醜いより、美しい方が気持ちが良いし、私自身もいつでも美しく在りたいと願っているが、真摯に取り組む人や物事を見た時、胸を突かれるような感覚になったことはないだろうか?
それは、年齢や性別だったり、その人の属性に左右されるものではない。
そこには、きっと真善美、そして本質が存在するからなのかもしれない。
参照元:新潮文庫 『ドリアン・グレイの肖像』 オスカー・ワイルド
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