死者の聴覚
- Naoko
- 2021年10月18日
- 読了時間: 6分
更新日:2021年11月27日
執筆者:Naoko
二十代後半頃、大手のシステム開発会社に勤めていた私は、毎日のように深夜まで終わらない仕事漬けの日々を過ごしていた。いくら寝ても回復しない泥のような疲れが蓄積し、抵抗力が落ちた体は、すぐにでも病気になる準備をしていたかのようだった。クリスマスを過ぎたころから年が明けてからの二週間、ノロウイルスと思われる胃腸炎になり、お正月明けに電車で出社しようとした朝、突然目の前が真っ白になった。

半蔵門線の水天宮で急に眩暈がしたかと思ったら白い空間に遮蔽されたかのような状況に陥り、まず視力が一時的に無くなった。
反射的なものかもしれないが、人は目が見えないと悟ると自然に目を閉じてしまうらしい。目を開いているのに見えないという状況が恐怖なのだ。
見えない目を瞑りながら必死にもがいていると、今度は足に力が全く入らず、へなへなと車内でへたり込むしか術がなかった。
そして身体の芯がものすごく熱を帯びているのか、血の気が引いてとてつもなく寒いのか、体感覚がまるで壊れてしまったかのように、とにかくここを出ないともっと最悪なことになりそうな予感がして、床を這いつくばりながら車内からまろび出たのを覚えている。その時、私は限りなく死の近くにいたように感じる。
そのあと、駅のホームで異変に気が付いた親切な周囲の方たちが、駅員を呼び、救急車を呼んでくれたのを鮮明に覚えている。
いや、鮮明に、という表現は正しくないかもしれない。
鮮明という言葉の響きは、どこか視覚的な要素があるように思え、視力が使い物にならないかった状態の私としては、ふさわしい表現ではないのかもしれない。
その時の記憶を思い出すときに、感覚。
それは「聴覚」である。
会社員と思われる数名の男性や女性。おそらく2,3人はいたと思う。
遠くから走って駆け寄ってくれようとする足音も複数名。会話の雰囲気からすると駅員を誰かが呼んできてくれたようだった。
すべての感覚がなくなったような気でいたが、驚くべきことに周りのざわめきや話し声は、クリアに聞こえていることを今でも覚えている。
最後まで残る感覚
人間が音を感知する仕組みとしては、音は耳介(いわゆる耳)に集められ、外耳道を通って鼓膜に到達する。その後、耳小骨で音は増幅され、内耳の蝸牛が音を電気信号に変換し、脳へと伝達される、らしい。
医学書にはそのように書かれている。
耳や脳にダメージがなければ、このような過労死一歩手前の衰弱した状態でさえも、聴覚とは正常に働くのではないだろうか?
人間は死ぬ間際、どうやら聴覚が最後まで正常に働いており、今まさに亡くなりそうな人には、反応ができなかったとしても家族が何か伝えたいことを話したほうが良いと医療関係者が話していたのを聞いたことがある。
人がその生を全うするまで保持している感覚が「聴覚」なのは、非常に興味深い。
本日は、完全に死を迎えた少女が外界の音を明敏に感じる物語、吉村 昭の『少女架刑』を紹介したい。
吉村 昭は『ふぉんしぃぼるとの娘』や『戦艦武蔵』などの歴史小説の印象が強いが、初期作品は意外にも歴史ものではなく、性(生ではなく、エロス)と死を描いた短編小説が多い。
『少女架刑』の主人公は、肺炎で亡くなった16歳のヌードダンサーの少女が献体として、病院に納められるところから話は始まる。
注目すべきなのは、この物語の視点は、亡くなった少女である点だ。
死者が主人公の場合、多くの作品では、その魂が霊的な存在となって肉体から意識が抜けているような状態で描かれることが多いが、この小説では肉体に精神がまだ宿っている(と思われる)状態で、描かれた作品である点が面白い。
ただそれ故に、実に表現が生々しく、読み進めるとあたかも自身が徐々に解剖されていくような錯覚に陥いり、居心地の悪さを感じる。女性の読者は特にそういった感覚になりそうだ。
亡くなった少女の身体は、幾ばくかの金と引き換えに献体として引き取られる。少女はその日の様子をこのように表現している。
「 私の聴覚も、冴え冴えと澄んでいた。
軒端から落ちる雨滴の音ーそれが落下する個所でそれぞれ異なった音色を立てていることも鮮明に聞き分けることができた。」*1
若い肉体は、張りのいい皮膚や新鮮な臓器、そして脳などありとあらゆる部分が再利用可能な素晴らしい”素材”だ。
少女の身体は必要な部分に分解されていくが、同時に男たちの無遠慮な視線に羞恥心を感じたり、同じ女性研修医からの侮蔑に満ちた視線や悪意を感じ取ったりしている。
そして、献体したことにより、誰かの役に立てることについて少し不安に思っている。
かつて地方の神官の娘であった貴い血筋の母、貧しい板前の父の間に生まれ、母が凋落した生活に落ちてしまっていることを不憫に思っている。
一方、母は娘を一人の女として見ており、嫉妬以上の、むしろ死んからも敵意さえ感じる態度を貫いている。献体をしたことによって得られた金額が少なかったことに腹を立て、遺骨の受け取りを拒み、受け取りを拒否された施設側は、腹いせに彼女の家の前に遺骨をぶちまけようとする。
少女の扱いがあまりにも酷くて、ここまでくると、吉村 昭は正真正銘のサディストなんじゃないかと思うぐらいだ。
尚、初期作品の中に『青い骨』という作品があるのだが、それも少女の献体が登場するし、他の作品でも遺体が繰り返し繰り返し、しつこいぐらいに登場する。
なんとか、遺骨をぶちまかれることは回避でき、合同墓に納骨されてからも、少女は聴覚を研ぎ澄ませている。
「ぎしッ、ぎしッ、ぎしッ、その音は次第に数を増した。
私は、ようやく納得できた。その音は、明らかに古い骨壺の中からきこえている・・・・・・。
古い骨が、壺の中で骨の形を保つことができずに崩れている・・・・・・。
音は、堂の中のいたる所でしていた。それは間断のない音の連続であった。時折り、一つの骨が崩れることによって骨壺の中の均衡が乱れ、突然、粉に化すらしい音がきこえることもあった。
堂の中には、静寂はなかった。それは、音の充満した世界であった。骨のくずれる音が互いに鳴響しあっている、音だけの空間であった。
私の骨は、すさまじい音響の中で身をすくませていた。」*2
音に始まり、音に終わるこの小説。
少女は、ありとあらゆるもの ー 肉体はもちろん、労働、与えられるべき肉親からの愛などが奪いつくされ、さんざん刈り取られている。むしろ彼女は全てを供物として、母に、世の中に、言葉通り自らを奉げている。
彼女が唯一奉げなかったもの、彼女が彼女たらしめる「聴覚」というべきか「聴覚的な意識」というべきか。
心臓が止まっても、「聴覚」はしばらく機能している事象を最大化するとこのような話になりそうだなと感じた。
最終的に人間の「聴覚」はいつ失われるのであろうか、頗る興味深い。
引用元:*1,*2 中公文庫『吉村 昭 自選初期短編集Ⅰ 少女架刑』吉村 昭
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