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酔いどれの行進

  • 執筆者の写真: Naoko
    Naoko
  • 2022年5月19日
  • 読了時間: 6分

更新日:2022年5月27日

執筆者:Naoko


新型コロナ禍となって、2年以上経過し、人々の生活は変化・変容していったと思う。

ECサイトはコロナ禍前よりも活況となり、Uberやネットスーパー、電子決済など非接触の経済活動が当たり前のようになった。


在宅での勤務も当たり前になり、家から出ることも少なくなったせいで、外出が出来ないから、旅行や外食は減り、Amazon PrimeやNetfrixなどの動画コンテンツ、ゲームなど、内向きの刺激を受ける毎日。


少し新型コロナが落ち着いた今でも、2019年頃のように、毎週友人や知人と会食したり、旅行も国内の自家用車で回れる場所へシフトしていったように思う。




酔うことは、埋めること


コロナ禍になって、私自身、生活の中で大きく変わったことは、何か?


それは、飲酒の頻度・量、である。


2019年頃は、外食の際に軽めに飲んだり、土日の夜に自宅で飲むぐらいの頻度で、一般的な飲酒からしてもやや少ない方ではないだろうか?

それが、この2年間でどう変わったのか?


緊急事態宣言が複数回実施されたが、最初の頃は、外食や旅行だけではなく、映画館での大音量での映画鑑賞や演劇、ライブ、友人たちと他愛もない会話をしながらのコーヒータイム、公園でピクニックすることや、お花見まで禁止され、死んだように静まり返る都市、街々。


外的な刺激の一切が禁止された平板な日常の中で、アルコールに救いを求めるのは、時間の問題だった。


緊急事態宣言が発令されたと同時ぐらいに、まず、ECサイト上で今まで飲んでみたかった少し高級なシャンパンを片っ端から、注文していった。


夕食時、仕事の終わりに飲むテタンジェのノクターンやAYALAのシャンパンは筆舌しがたいほどに最高だった。

シャンパンは、どこかハレの気配を纏っていて、飲むだけで多幸感を齎し、精神を高揚させることが出来るアルコールである。

下がる所まで下がった気分の落ち込みを埋めてくれるものが、シャンパンだった。


最初は1日1、2杯だけのつもりだったから、1週間でワインボトル一本を開ける程度であった。シャンパンをじっくり味わいたいという思いもあったと思う。

しかし発泡性だから、気が抜けてしまっては美味しくなく、2日間で1本を開ける様になってしまった。

そうこうしているうちに、1週間に3本程度のシャンパンを開け、1か月のクレジットカードの請求額のうち、かなりのパーセンテージをワインが占める様になってしまっていた。


それから徐々に、シャンパーニュからアルコールはコスト・パフォーマンスが良く手っ取り早く酔える安酒になっていった。

そんな生活をしながら、1年が経過した頃、健康診断では肝臓に血管腫が出来て、身体に多大な負荷をかけていたことにようやく気付くことが出来て、自らの生活を改めるに至った。

今では飲酒の頻度はせいぜい2、3回と落ち着いており、もう馬鹿な飲み方は止めるようになった。


欠落感を埋めるには、健康という代償を払わざるを得なかった。



ワインボトルの底の人々


前置きが長くなったが、アルコール依存症繋がりで、アルコールに溺れた作家、ルシア・ベルリンの『掃除婦のための手引書』を紹介したい。


ルシア・ベルリンは、1936年アラスカ生まれの芯の強そうだが魅力的な女性であり、3回の結婚と離婚を繰り返し、4人の子供を持つシングルマザーとして、教師、掃除婦、電話交換手、看護助手として働きながら、自伝的な短編小説を書き溜めていた作家である。

生前あまり評価されることのなかった作家で、日本でルシア・ベルリンを知らない方も多いと思う。


彼女はアルコール依存症に悩みながらも、様々な職業経験を通して、埃っぽくて粗削りなところや、どこかユーモアや人間愛を感じさせる作風は、一部の熱狂的なファンがいるほどだ。


短編のほとんどは、彼女の視点で描かれており、妙に生々しく、その情景が思い浮かぶほどなのだが、どちらかというとそこに居合わせたくないような気まずいシーンが度々登場する。

例えば家族に毛嫌いされている歯科医師の祖父や、ネイティブ・アメリカンなど人種的マイノリティ、爪に火を点すような生活を送っているような貧困者達、社会的にマイノリティとされる人々に焦点を当てていて、ワインの底に滞留しているような澱のような彼らの日常を飾り気のない文章で綴っている。



地を這いながら生きていく


アルコールに頼りながらも、シングルマザーが4人の子供を育てながら、生きていくためにありとあらゆる仕事(教師、掃除婦、電話交換手、看護助手など)を渡り歩きながら、したたかに生きているルシア・ベルリンであるが、彼女の幼少期は、中産階級の家庭に生まれ、繊細な感受性を持った少女であった。


彼の父親は、鉱山技師であり、ブルーカラーというよりは、新しい鉱山のプロジェクト管理や設計などを行うような位置づけだったと考えられる。

「わたしの父と鉱業大臣が写っている新聞の写真」*1 という表現から、鉱山技師として高いポジションにあることが推測され、更に「ソローやジェファーソンやトマス・ペインに心酔していた」*2 人物であり、一定の政治的思想や哲学、理念を持ったインテリゲンチャであることが分かる。


彼女自身も、「マルセロ・エラスリスでのディナーとダンス。かぐわしい庭を眺めながらテラスで飲む小さなカップのマティーニ・コンソメ。十一時に始まる六皿のコースディナー」*3 を嗜む日常が描かれており、鉱山町に居ながらも、十分に恵まれた生活感をうかがい知れる。


自身を取り巻く環境はそのように豊かではあったが、彼女が少女時代に出会ったシスターとの出会いが彼女の世界を大きく一変させる。


『掃除婦のための手引書』の中の「いいと悪い」という短編作品の中で、そのいきさつが描かれている。


主人公は、ブルジョワで少し素行の悪い16歳の少女。


ミス・ドーソンというシスター(教師)に誘われて、チリ人の貧民窟や障害がある子供たちの養護施設、革命家たちの劇場を見て回るうちに、社会の底辺を知ることになる。

彼らは主人公のようなブルジョワジーを軽蔑や侮蔑の対象として眺めている。時には罵倒されたり、恥をかかされたりと、チャリティ活動に行きたくないという気持ちが湧き上がるものの、ミス・ドーソンの子供のような純粋さと、社会を良くしていきたいという頑迷なまでのあきらめの悪さを好ましく思うようになる。


一方で、ミス・ドーソンや社会の底辺の人々との関わり合いやその場で起きた出来事を、家族や友人に話すことが出来ないでいた。あまりに彼らとの格差や価値観に違いがありすぎること、社会的弱者を息まきながら助けたいという熱意が過ぎて周囲から変人と思われているシスターとの関係性について咎められるからだ。


ある事件を契機に、ミス・ドーソンとのチャリティ活動からは遠ざかってしまうが、多様性についての耐性と、多角的な視野を持つようになった経緯が描かれている。


大人時代の短編作品では、かつての中産階級的な狭い世界から抜け出して、視点がどこか優しさや温かさに満ちている。


コインランドリーで出会ったネイティブ・アメリカンや、癖のあるトラック運転手、床を水浸しにする人々とユーモアのあるやり取りがあるもの。

インテリで近づきがたかった父親が痴ほう症になって初めて、彼のむき出しの負の感情との向かい合い、不思議と距離感の縮まりを感じているもの。

かつて家政婦もいるような家に生まれた彼女が、掃除婦(家政婦)となり、クライアントの家ごとでの個別ルールを覚書きを手引書として細かにまとめているもの。


立場が変わり貧しくなっても、あまり悲壮感がなく、どこか状況を愉しんでいるような客観性のある彼女の文章。

輝くような日常でなくても生きていくことは、あらゆる人々に認められた尊い権利なのだ。





引用元:*1,2,3 講談社文庫『掃除婦のための手引書』 ルシア・ベルリン / 岸本 佐知子訳

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