数多の傷は「在りたい」という願い
- Naoko
- 2022年4月7日
- 読了時間: 4分
執筆者:Naoko
精神の痛みが壮絶であればあるほど、肉体の痛みで感覚をまぎらわそうとする人がいる。
精神の痛みを和らげるための癒しの一つとしての自傷行為。
自傷行為は、いわゆるリストカットだけではなく、体中を埋め尽くすタトゥーや耳だけではない様々な場所へのピアッシング、SMのようなハードなセックスや、飲酒、ワーカホリックだって場合によっては自傷行為と言えるだろう。
そんな自傷行為をしている少女たちを、覗き見ているような感覚を覚える空木春宵の『感応グラン=ギニョル』
痛々しく甘美なタッチの5つの中編小説であり、一部の作品はある物語のその後の続きが描かれていたりする。

グラン=ギニョル、とは、フランス・パリに19世紀末から20世紀半ばまで存在した大衆芝居・見世物小屋の劇場を指すのだが、私の年代だと、どうしても飴屋法水と嶋田久作、丸尾末広が宣伝美術に携わった”東京グランギニョル”を思い出してしまう。
詰襟、黒い学生服の美青年ばかりの耽美でグロテスクな演目の暗黒劇団。
『感応グラン=ギニョル』もそんなテイストではある。
登場人物がもっぱら美少年、美青年ではなく、美少女であるが...
貴く腐る
5つの物語のうち、どれか一つを選ぶとするならば、どれも選び難い作品ばかりであるが『徒花物語』が私としては好みであった。
舞台は、花屍(かばね)と呼ばれるゾンビ少女のための女学校。
新入生のうちは、活発に動けていても、上の学年になるにつれ、手や脚がもげ、上半身だけで擦りながら歩き、言葉もうまく発声することが出来なくなっていく。
少女たちは、既に死んでいるため死に対する恐れがないため、戦場へ送られるための存在である。
徐々に不自由になっていく身体。
緩慢になっていく思考や知性。
「何だろうと訝りながら、彼女らと肩を並べてよくよく見遣れば、遠目には黒い塊としか見えていなかった物体は、黒髪を茫々と振り乱しながら床を這いずっているひとりの少女であった。
中略
<花屍>化が進行すればする程、その身は脆く、崩れやすくなる。熟れ過ぎた果実は、やがて、文字通り腐っていく。皆、それが判っているからこそ驚きはしない。ただ、自分達の末路を見届けようというような面持ちでいる。」*1
この物語は、”徒花物語”と呼ばれる学園の誰かが記した手記を、主人公である花屍の少女・由香利が読み、この手記の内容と、花屍の少女たちの学園生活が交互に描かれている。
由香利は、花屍化が進行した上級生たちは、知性もなくなり意識も朦朧としてくるに違いないと信じていたが、手記には花屍化が進んでも、痛みや意識が残っている様が描かれ、逃げ場のないやるせなさを感じている。
また手記では、人間である教師と花屍の少女たちの秘めやかな恋が交わされ、花屍の学園生活では、上級生と下級生が疑似恋愛めいた「Zの誓い」という契りを交わされている。
「Zの誓い」は、お互いの肉体、例えばお互いの腕などを交換する。この身体の一部交換には痛みが伴うが、この物語の中で象徴的に描かれている。
この女学園や花屍の真実を知ることになる由香利は、肉が溶けかけても、腕がもげても、うまく発声出来なくなったとしても、自分自身に残されている「感覚」や「痛み」は全部自分だけが持ち得る貴いものなのだと感じている。
この『徒花物語』だけでなく、他の中編小説でも、様々な傷だらけの少女や自らの人体をハードに加工している少女達が登場する。いずれの傷も、激しい”痛み”を伴うものだ。
彼女たちにとってそれらの”痛み”を感じることは、生きている証であり、今ここに実存している証なのだ。そういう意味で、自傷行為を行っている少女たちを覗き見ているような小説だなと感じた。
意識の在り処と傷が齎す癒し
今回初めて、空木春宵の小説を読んだのだが、ペンネームの印象から勝手にサイバーパンクが好きなゴシックロリータな少女然とした女流作家だと思い込んでいたのだが、なんとも好青年というか、素敵な殿方であった。
また、ジャンルはSFということだが、SF寄りの幻想文学であり、人が持つ「意識」にフォーカスした作品が多く感じられた。
意識の在り処に興味がある方にもおすすめしたい。
そして今、心の痛みを激しく感じて、死をうっすら願う人にも、この小説を読むことで一種の自傷行為の追体験を得られ、心の傷を少し和らげる効果があるかもしれない。
引用元:
*1 東京創元社『感応グラン=ギニョル』収録『徒花物語』 空木 春宵
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